今日は一日中、イライラしっぱなしでその怒りに任せて10枚以上絵を壊して捨てた。いくら労力がかかっていたものであったとしても、自分でいいと思えないものをいつまでも残しておいても仕方ない。中には知り合いに「イイ」「ヤバイ」などと言われた絵もあったが、20代の高円寺の貧乏バンドマンじゃあるまいし、「ヤバイ」などと言う一銭にもならない言葉はいらないし、全ての判定は自分でする。全てにおいて言える事だが、金にならない事を有難がれるほど出来た人間ではない。
ベニア板に描いた絵ばかりを捨てたのだが、バキバキと蹴って折ったり穴を開けたりしてフレームから外した。激しめの音と足の感触が結構爽快でイライラが少しおさまったのが感じられた。木材のフレームは最近の趣味であるシルクスクリーンのフレームに使用をすべく、ノコギリでカットをした。
バラバラ殺人でのノコギリ使用では、無理に切ろうとすると人間の油で切れ味が悪くなってしまうと聞いたことがあるが、カラカラに乾いた木はサクサクと切れていい香りがした。
そういえばこの前、Jokerの続編を見に行った。
2019のJokerは高橋ヨシキを始めとする信頼できる映画批評家からはなかなか評判が悪かったが、俺は結構好きで、映画館で2回、家で2-3回も見て、毎度毎度アーサー解放されてよかった〜などとその都度スッキリした気持ちにさせられていた。
いろんな考察があるのだろうし、玄人批評家と同じようにネガティブな批評をTwitterなどで偉そうにひけらかしていれば上がる株もあるのかもしれないが、俺は映画素人だし、素直に気持ちよかったら別にそれでいい。
ただ今回の続編は前評判があまりにも悪かったため、耐性を付けるべくIMDbでネガティブな素人批評を読み、期待値を極限まで下げて劇場へ行った。
お陰で鑑賞後の素直な受け止めはそんなに悪くなかった。裁判途中でJokerがヒヨリ出した所は、おいヒヨってんじゃねえよと結構戸惑ったが、トッドフィリップスもJokerも同じように真面目に自責の念の末に出した最善の終焉の策だったのだろうと、アーサーの成長を見守ってきた身としては、やや不満は残ったが、あれは「人間宣言」であるということで一応の納得をした。
正直そこまで深くは知らないが、基本的に歌が上手い女が好きな俺はLady Gagaも何となく好きだったので、劇中のLady Gagaのカバー曲のオンパレード、特にClose to Youはとても良く聞こえた。
ただ見終わってから何日かが経ち、やっぱり納得がいかない、強い不満に変わってきた。
観賞後に幾人かのプロの批評を見聞きしたが、大半はネガティブな批評であったのに対し、”ネタバレしまくりで鑑賞前には絶対に聞きたくないで有名な映画批評家”の町山さんのラジオ批評では、異様なまでのポジティブ批評でとても気持ち悪かったので、ここにその理由を少し書く。
町山さんはアメリカでの事件以外にも日本で起きたジョーカーのコスプレ男が電車内で放火をした話をわざわざ引き合いに出していた。ただ、あの日本のもの凄くダサいコスプレ放火犯はヒースレジャーのJokerの格好であり今作とは関係がない。自分の語りを正当化するために嘘を持ち出す気持ち悪さを感じた。百歩譲って2019年版Jokerをきっかけにしたアメリカでの事件があったとて、映画のキャラクターのコスプレをしてくだらない事件を起こすようなあの様なただの馬鹿に映画監督が自責の念を持つ必要などないと、「映画愛」を持つ人間は言うべき。
さらにトッドフィリップスがJokerで億万長者になってしまった事を引け目に思っているからこの様な映画になった的な語りであったが、Joker2019で儲けた自分の金を全額犯罪被害者基金みたいな所にでもまずは寄付をするなり行動で示していれば道理は通るが、そんな話は聞かない。
ナルシシスティックな自省ためにキャラクターを殺し、「本当の愛は見つけられる」などと言う綺麗事の歌で締めくくったからといって、本当にそれに救われる人はどれくらいいるのか、映画の中で気持ちのいい殺しを見せてスッキリさせてくれた方が俺みたいに救われる人間は多いはず、絶対に。
今は、2度とトッドフィリップスの映画は見たくないと、強烈に思うまでに至った。町山さんのポジティブ批評に逆に反対側に誘導された感は否めないが。
「愛」とか言っておけば全てが包摂されるなどというファンタジー、それが兎に角非常に気持ちが悪いし、ものすごく嫌い。それに乗っている人も心底気持ちが悪い。都知事選の時の蓮舫陣営の半目で浸りながら歌っているあの人らを想起させる。
俺の感覚的に、全体的な傾向として、左派的な思想の人たちはどうも柔らかい愛のファンタジーが好きな様だが、そんなのにはのれない。一方、右派的な人間の好きな神武天皇うんちゃらかんちゃら神の国ファンタジーにも、当然のれない。
最近、左派のダメさなるものを一部で指摘をしている人がいたが、そのダメさなるものの一つには「愛」を語りながら敵認定したものへ対する、愛とは相容れない憎悪的言動なんだろうとも思う。
それにそもそも俺を含めて、「愛」なるものへの信用は低いのが今の世間だと感じる。だからいくら語ったところで、暖簾に腕押し状態。それに左派的な人らもナラティブに使いやすいから「愛」を「使っている」だけで本当はそんなもの信じていない感がある。
というか、こんな話し出したらもっと頭使ってちゃんとした文を書かざる終えなくなるから、もう切り上げる。
でもやっぱLady Gagaの歌は好きだなあ、
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