ツイッターはもはやエックスという名前へ変わった、が、ツイッターでこの前ちらほら見た、インボイス制度に反対している売れない「アーティスト」らへの反感を買うようなツイートをしていた田端という人間に対して、「アーティスト」やそれらの人々と何かしらの関わりのある人々が、バカ真面目に正論をレスポンスをしていて、それはそれで嫌だなと思った。たかだか数行のツイートで想いなど届くはずがないし、ましてや考えを変えることなどは不可能なんだから、金だけ持ったセンスない成金なんかただ無視すればいいのにと、心底思った。
まあ、それもそれで嫌だけど、大体の人はツイートをする事、それ自体から、ただ充足感を得ているのだろうけど。
とりあえず思ったことをまとめた。
ツイッターといえば、日本で本格的に流行り出したのは2011年の震災後であると思うが、当時プロフ欄に「左翼です!」主張をしている何とかって人をフォローしていた。回って来たツイートをたまたま目にして、とても歯切れよく、正しいことを言っているように見えたから。それに左翼ならマル、といった意識が自分の中にあった気がする。
その人物は左翼界隈ではまあまあ有名らしく、津田大介とちょこっとやりとりをしたり、フォロワーも何千人もいた。
未曾有の原発事故、目に見えぬ放射性物質が福島から日本各地へと飛散しているのではないかという不安に包まれていた当時、福島から離れた東京でもガイガーカウンターを持った誰かが放射性物質を思いもよらぬ場所で検知し、それがまあまあ大きなニュースとなっていた。
日々、原発や政治の批判をかましていたその左翼人であったが、そのニュースに対して「ほら見ろ、やっぱり!東京にもこんなに飛んできていたんだ!」「どうせ政府はスケープゴートならぬ、〜ゴート(忘れたが何かうまいことを言っていた)として、処理するんだろ笑」などと、それをネタに無根拠な推論を繰り広げながら批判を連投し、左翼連中と大盛り上がりをしていた。
だが結局、左翼人の予想に反して、その検知された放射性物質は福島から飛んできたものなどではなく、詳細は忘れたが、何か古い瓶に付着していたものをたまたま検知しただけの思っていたよりも「つまらない」、小さな話であった。
さんざん推論を繰り広げてネタにして、誤情報を飛散、拡散させたわけだから、この左翼人はしっかり謝るのかなと数日待っていたが、謝罪ツイートなど一切なく、ネタを見つけては性懲りも無く偉そうな推論をするばかりであったので、フォローを外した。
同じ様な言動をする右翼人も目にしたことがある。左ならマル、右ならバツ、ではなく、ただろくでもないやつはろくでもないのだなと、はっきりしたし、属性主義的に敵味方の選別をすることはしない様にしようと思った。
属性というのはなかなか厄介で、自分を省みて思うのは、それ自体よりも属性に含まれる物語を自然と重要視してしまい、切り分けて考えることは難しく感じるし、また必ずしも属性を無視するべきだとも思わない。
学術的論考とは無縁の俺は、結局、バランスをとってその人物を観察すべき、だとその程度の結論となる。
ただ信用ができる人間かどうかを見極める一つとして、自分自身の誤りに気づいた時に、誤りを認め謝罪のできる人間は基本的に信用する、としている。
俺がMalcolm Xを追っていく中で感じた彼の一番の素晴らしさは、その様に自分の誤りに気づいた時には非を認める人であったし、その先の道が困難が予想される場合であっても、強い信念に従い前へと進める、強さ。そんな強さのある人間は少ないし、俺はその様に強くありたいと思ってきたわけだ。
一応付け加えると、この国の政治屋達の様に、犯罪や犯罪的行為が露呈したときに、仕方無しに謝罪テンプレートを読み上げ、病気を盾に逃げ果せる様な、姑息な奴らは論外。また政治屋たちのその姑息な手法や姿勢が、企業から個々人にまで「トリクルダウン」している様に感じる昨今で、この国の終末を待ち侘びる以外にない。
なんだかんだ、この前書いた文と文末は同じようになってる気がするが、それが最近最も考えている事なんだろう。
それと意図せず、Xが繋がった。この文のタイトルはXとしよう。
Xで思い出してしまったが、速弾きに憧れていた中学生の頃に、X JAPANの紅のhideパートを熱心に練習していた。
その頃、見た目的に気に入っていたFenderのJazzを目当てに御茶ノ水の楽器屋に行き試奏した時に、ここぞとばかりに紅を弾いたら、店員にそれを弾くならこっちだと、ビジュアル系御用達メーカーのギターをゴリ押しされた事も追加で思い出した。