ここのところずっと探し続けてきたテーラードジャケットをようやく今日に購入できた。スポーツっぽい格好の楽さを知ってしまってからというものの、スラックスすら履くのが面倒になってきた昨今であるが、そもそもその手のジャケットは「社会人の社会人のためのユニフォーム」という強い固定概念があり、社会の野太い手で首を絞められ酸欠意識朦朧の自由を剥奪された状態にさせられるため、全く好まない。一応、十数年前の兄の結婚式に用に必要になり買ったツイードのスリーピースのジャケットやらがクローゼットの奥底にシワクチャに押し込められて一応存在をしているが、今着れるもは一つもなかった。ただ娘の卒園式と入学式という社会のセレモニーに身を晒さねばならず、仕方なしにずっと探していた。
全く見慣れないし探し慣れていない社会ユニホームなるものは、なんだかんだネットで探せばセットアップで10000円ちょいとかの超安物や、UNIQLOなどでも似た様な価格帯でそれらしいものは買えた。ひとまずネット通販で一度取り寄せて見たものの、ティッシュが2-3枚必要になるくらいに見窄らしい安物で全てを即返品した。社会ユニホームのような歴史と定型がある物はその質の比較がそこそこ容易で、その人間の「社会でのランク」を「可視化」させる機能があるとその時に気づいた。そんなゲームは甚だ馬鹿らしいが、その程度の事で偉ぶられては困るので、乗るからには思いっきり乗ろうと思った。金を出せばそれは当然、上等な生地の優れたデザインの社会ユニホームは入手できるが、それは資本主義に踊らされているに過ぎないし、麻生太郎のように上等なユニホームを纏っても内面から出てくる底なしの下品さが上回ってしまう事もある。
俺が知る限り政治家はどこの国でも上等な社会ユニホームで自身の社会的ランクの誇示をしている。先日ゼンレンシキーがホワイトハウスに訪れ、トランプとの会談冒頭に数十人いるトランプの取り巻き記者の1人から「あなたは社会ユニホームを着ていないけど、持っていないのか?敬意がないのか?」などと笑いの中小馬鹿にした質問をされていた。「戦争が終わるまではこのコスチュームをきている。社会ユニホームは持っている、あなたの様なのを。でもそれよりは安いかな、もしかしたらもっといいものかも」とそんな質問にも真摯に返答をしていたが、あの会談終盤の口論もひどい物であったが序盤から姿勢批判を含む見た目いじりを完璧なアウェイの中でされており、とてもいたたまれない気持ちにさせられた。
そんなゼレンシキーの分までこの俺がこのゲームで…という気持ちで今日新宿の街へと繰り出した。セットアップの購入は無駄な出費以外何物でもないので、手持ちのそこそこいいウール生地のスラックスと近い素材のジャケットを購入することが見た目や予算に最適解であると考え、普段は行かない様な店を数件はしごし研究と探査をした結果、奇跡的に手持ちのスラックスとも生地がほぼ同じFUMITO GANRYUのジャケットをセカンドハンド店で発掘できた。社会ユニホームの定型を綺麗に壊しながらも体裁は保ってくれる、一切息の苦しくならないその形に本当に心底救われた。
「世の中そういうものだから」という万人に諦めを推奨するパワーワードを俺もそろそろ受容しなければならないのかと、最近の社会ユニホーム購入問題を機にずっとぼんやりと考えていた。その中で、中学生時代に理科のテスト勉強の時に、原理の説明など求められていないのだがA×B=Zのその原理が全く理解できなくて苦悶した事を思い出した。結果的にそういうものであると覚えてしまえばいいやと諦めたら、スイスイと頭に入り結果的にかなりいい点をとった気がする。
ある程度はそういうものだから、という諦めも必要な時もあるのだろうが、俺はここにくるまで「世の中そういうものだから」には真っ向からはむかってきた気がする。遠くのものは色を薄く描くというデッサンの基本の方法論も原理に納得ができてからではないと実践はせず、遠くでも濃い黒でひたすら描いていた。理解もしていないのに知った様な顔でなんでも受け入れることが、何か、ズルをしている感覚になってしまう。
仕方なしでも「世の中そういうものだから」を受け入れてみると意外と新たな視点を得られるし、ちゃんと救いもあるしまた戻ってこれるのだと思えた。
社会ユニホーム問題に決着がつき、解放された反動でお気に入りのアルバムのレコードを買っちゃったんだけどその曲を貼り付けとく。


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